この記事の注意点
このブログに記載される内容は私の主観などによるものであり、何らかの確証を得たデータを用いたものではありません。
定義やセオリーなどを無視したものであるため、閲覧の際は都市伝説よりも信憑性のないもの程度に考えておいてください。そのうえで信じたいと思う方はそうして頂いてもかまいませんが一切の責任はとれませんのでご容赦くださいませ。
私は感情論で話す人が苦手。感情論は好き。
私は感情論で話す人が苦手です。感情論を話すということは自分の正しさを他人へ押し付けるということだからです。それは私の嫌う2つの人種のうちの1つです。
ですがそれを押し付けないのであればその限りではありません。
そしてそのうえでの感情論なら好きだという話です。
感情論で話されると苦手
感情論は議論の邪魔になる
私は会話や議論において感情論を用いることを敬遠しています。実際にできているかという話は置いておいて気にしている人は多いんじゃないでしょうか。
一般的な場においてこのブログのような根拠のないこと提示しながらつらつらと述べるのは珍しいと思います。
普通ならばデータなどの根拠のないデータは戯言として処理されます。
自分の出した案がなんとなく気に食わないなんて言う理由で提案を却下されたら思うところはありませんか? 私はあります。
それに加えて感情論で話されると、相手の感性や感情を完璧に理解することが難しいとされる今の世の中では反論すらできない場合もあります。
勘定で話す相手に論理的な話で進めても相手は(表面上、納得したようなそぶりを見せることもありますが)絶対に納得しません。
それどころか後になって反旗を掲げだすこともあります。
相手の根拠が感情というあいまいな部分に頼っている以上、どうあがこうがそれを打ち崩すことはできず感情論を用いる人とは度々、議論になりえません。
議論の邪魔になるのにもかかわらずなぜ感情論が好きなのか。
前述したとおり感情論の根拠は具体的なデータなどではなく、あいまいな感情です。
つまり、感情論にはああらかじめ用意した何かなどではなく3秒で考えたような内容でも議論に引っ張り出すことができ、その感情が無視できないものだった時、私はそれを美しく感じます。
感情論が有効なケース
ケースその1 曖昧な定義
例えば「相手を真に理解することは絶対に不可能だ」という話が合った時に私はこう言うようにしています。
「それだと寂しすぎるので絶対ではない。人間関係はそんなに寂しいものなのか」と。
この議論で重要なのは宇宙五分前仮説に似て根拠を出すことが非常に困難であるということです。
感情論には根拠は全くありません。ただそんな寂しい人間関係があっていいのかと。人間はそんなにも寂しい生き物なのかと。
そう語ることで人は真に分かり合えるという定義を何の根拠もないままに感情論を代理の根拠として振り回すことができます。
永遠に続く議論をこういう感情論でまとめた時、私はそこに美しさを見出します。
ケースその2 同情や共感を狙う
次に全く差のない二つのものを比べたりするときに感情論は代理の根拠として役に立ちます。
これは何かを発信する人なら良くやることでしょう。
「なぜ車にお金を使うのか」という問いかけに「ステータスになる」とか「資産になる」とかいうよりも、「かっこいいから」とか「なんとなく好きだから」、「特に好きな理由はないけれどなんとなく趣味だから」とか言った方が話は盛り上がりますよね。
もちろん車に全く興味のない人からしたら前者の方が納得できるでしょう。しかしこの場合、議論は一方通行であることの方が多いので後者が有効に働きます。
相手のいない議論においては共感を得やすい感情論は有効です。
ケースその3 生き様や自己を語る
他にも生き様や自己を語るうえで感情論は自由の象徴になります。
自分の行動の根拠としての感情論を述べることは他人から非難されることはあれど自身を束縛から解き放つカギになります。
損得勘定もそうですがなんとなくで行動できる人はやはり強力です。
根拠を持つ必要がないので行動に対する制限がなく、どこまでも走り抜けることができます。そしてそれを人は悪意と呼びます。
まとめ
感情論は議論の上で度々問題視され、議論の進行を阻害します。
しかし正しくこれを使う、つまり理性的に感情論を使用することは時に有用な手段となります。
それを美しいと思うか、ずるいと思うかは個人の自由ですがこういう感情論の使い方があるということも覚えておいてください。
いつかあなたを救う一手になるかもしれません。
そしてそういう一手が私は好きです。

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