正しい人が苦手。正しい人とそうではない人へ、今一度考えてもらいたいこと。 

この記事の注意点

このブログに記載される内容は私の主観などによるものであり、何らかの確証を得たデータを用いたものではありません。
定義やセオリーなどを無視したものであるため、閲覧の際は都市伝説よりも信憑性のないもの程度に考えておいてください。そのうえで信じたいと思う方はそうして頂いてもかまいませんが一切の責任はとれませんのでご容赦くださいませ。

初めに勘違いしてほしくないこと

初めに勘違いしてほしくないのは、私は正しい人が苦手なだけで正しい人が悪いとは全く思っていません。常識とはどうのこうのとかを言うつもりもありません。

正しい人が悪いわけでもなくて、正しくない人が悪いわけでもないと私は思っています。
生き方を変えろとは言いませんのでそのままの生き方でも思うところはありますが別に構いません。

ただ単に正しい人が苦手なだけです。
そしてそういう考えの人がこの世の中には存在しているということです。

私の指す正しい人とは

ここでいう私が指す正しい人とは、正論ばかりを言う人のことではありません。
特に私の指す正しい人という定義は人によって大きく異なると思います。
これは何が正しいのかという定義がとてもセンシティブな話題だからです。

そのうえで私の指す正しい人とは、いわゆる普通の人、マジョリティーのことを指します。

差別に反対する人、子供に優しく接する大人、常にいじめる側が悪いと思っている人、多様性を尊重する人。仕事が遅い人ややる気のない人に対して注意する人、悪意を持たない人。

裏ではそうでなかったとしても表でこういった行為や思考をする人たちを私は正しい人だと認識しています。
こういう行動は悪いとする根拠がなく、一般的にそういった反応が正しい反応として処理されています。

正しい人が苦手だと気付いた理由

私が正しい人が苦手だと気付いたのは中学3年の時です。
それまでの私はすべての人間が嫌いなのだと思っていました。

それがそうでないと気付いたのは、人間のことが嫌いだけれどすぐ隣にいる人間に対して不快感を覚えることは少ないと思うようになったからです。どれだけ嫌いな相手だとしてもある程度仲良くはできることがありました。その人たちに接することで初めて私はこの事実に気づきました。

高校生の時には正しい人に対して持論を繰り広げ、戦っていましたが小さな学校一つでも変えることはできませんでした。まぁ、相手が正しいので当たり前ですが。

そういう普通の人とは違いあぶれた人たち、平気で噓をつく人、感情に乏しくて他人に対する不快感しかない人、自分の考えに合わない人を排除する人、そういう人たちとは今でも仲良くやっています。
そういう人たちの中にいたほうが個々に違う考えを尊重しあえるので、自分的にはいろいろと行動を起こしやすいというのも理由の一つです。

なぜ正しい人が苦手なのか

察しの良い方ならこの記事を読んでみてすでに想像がついているとは思いますが話させていただきます。

私が正しい人を苦手な理由は、その正しさが優しくないからです。

多分、今ので想像していた読者を遠く彼方に送り去ったと思います。

もし、あなたが誰かに邪な気持ちを抱いたとして、それが間違いであると突きつけられるのは仕方がないにしろやはりつらいものがあるのではないでしょうか。
私がこんな考えを持つのは、正しくないのは私がおかしい人間だからだ。そんな考えを持つ人を生んでしまうのが正しさの持つ暴力性です。
そしてその暴力性を妥当なことだとして許容してしまっているのがマジョリティーの持つ正しさです。

こんなにも辛いのは私が正しくないからですか。あなた方の持つ正しさに納得できないからですか。受け入れられたらどんなに幸せなのでしょう。それでも私は納得できません。

ひとたび息を吐きだせばそんな言葉が出てくるでしょう。

そうしてあなたはもっともらしい顔と言葉でこういうでしょう。

納得できないのはあなたの勝手だ。それが分からないなら話が通じない。それが当たり前だから。他人の気持ちを考えたことがあるのか。

そうか返される言葉たちに私はどう返すこともできません。
なぜなら正しいのはあなたたちで間違っているのは私なのだからと。

正しくない人を弾圧していく考えも別に嫌いではないですが、やはりそこに優しさを感じることができないのでそういう人たちは苦手です。

多様性を尊重する社会になってきた現代においても、結局は多様性を尊重できない人々を悪だという風に考えてはいませんか?

その生き方は正しい。しかし私はそういった考えが苦手です。
そう言えるのはおそらく私が強い人間になってしまったからです。口に出さず道化のふりをしている人は私の知り合いにも数人います。

その道化たちは今もなお、ばれないように吐き出しそうな感情を飲み込んでいます。
そしてそういう姿を眺めるときはやり場のない気持ちに襲われます。

正しくない生き方が悪なのか

最初に述べておきますが、大前提として私は自分を正しいと思ったことは一度もありません。ただ自分のことを『まとも』だとは思っています。

そのうえで私の見解を述べます。

私は別に悪が悪いとは思いません

別に犯罪を犯そうが、差別発言を繰り返そうがそれを他人に強要したりしなければそれでいいと思います。
犯罪の場合は誰にも強要しないというのが可能かは知りませんが、他人を傷つけてはいけないくらいのレベルで考えてもらって結構です。

であればどれだけ非難されようとも生きていくことはできます。
その生き方が難しい道であるのも確かですが、そういった人たちにとっては正しさに流されるのもまた苦難の道です。

語らせては頂きましたがこれもまた私の意見なので結局は自分の意見に従うことが正解だと思います。
自分の信じることが信じるに値するのか。それを考えてみてください。
でないと、いつかどうしようもなくなった時にまた捨てるかどうかの考えを巡らせることになります。

悪意だけを持っても人間は生きていけるしある程度社会にもなじめます。

結論

  • 正しい人、正しく生きれる人はそのままでも大丈夫です。ただ、何気ない正しさ、常識が誰にでも当てはまるわけじゃなく、そのことに苦悩しながらも生きている人がいることをきちんと認識してください。
  • 正しく生きることが難しい人、そして正しさが苦痛な人はその正しさが本当に価値のあるものなのかを考え直してみてください。きっとそれらは捨てることが可能なはずです。
    その上でも正しく生きようとするならその選択も尊重します。

最後に、正しいことだけが全てではない。そのことを心に留めておいてください。

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